ちょっと嬉しかったりもする

昨年のシアターχ公演後のみなさんのアフターダンスもそうでしたが、スタジオでも「Latin踊りたくて」という声をコロナ禍において聞くようになった。
わたしは実は<見せない踊り>も凄く得意で、それが核のところにあって舞台に上がっているということもある。

で、一般的にもLatinは<見せない踊り>を踊るにはもってこいの踊りだと思っている。音楽もいいし。
ひとりでも踊れる。

「踊りたい」という気持ちが単に仲間や友人とワイワイ会いたいからとかではなくて、ホントに踊りたいのであれば、ひとりが一番なのだ!
他のダンスでももちろんいいと思うけど、Latinは結構ひとりダンスに向いているのも確か。

 

で、で、実はその<見せない踊り>ってので至極の喜びを味わえる術を長年レッスンで伝授してきたのだけど、

やはり見せたいのが人々の本音なのか・・・見られると恥ずかしいというのはその裏返しだから・・・どうしても

ホントの<見せない踊り>が伝わらないことが多かった。

 

では、イチかバチかひびきの<見せない踊り>を見せてみようと試しにワークショップで踊ってみたけど、

反応もいまいちで(‘◇’)ゞやっぱ感じようとしないで見ようとしちゃうから<見せない踊り>が役に立たなくて、この踊りの運命を感じた。

 

 

だけど、この時期に「踊りたい」と思うのは、絶対にこの踊りをしたいんじゃないのかな(Latinじゃなくても)ということは感じている。

そして、それが、なんか嬉しい。

ひとは、ずっと踊ってきた。キューバに連れてこられたアフリカの人たちも、またほかの国でも、原住民でも奴隷でも。踊りは身心を支えてくれたと思う。信仰のひとつでもあり瞑想でもあったと思う。

そこには、習ってないからできないとか、ステップ知らないからできないというものは存在しない。人の目が気になることもない。
だってひとに見せないのだから。たとえ大勢で踊ったとしてもね。

 

きょうは、大野慶人先生が亡くなられてちょうど1年の日。
だから余計にわたしは踊りたいのかも。

 

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2件のフィードバック

  1. いのうえただし より:

    いま高良留美子の『神々の詩』をよんでいます。その中から一編の詩を送ります。
    「音楽」 
    歌が踊り 
    からだが舞う 
    音は響きわたり 
    天と地は一つになる 
    赤道直下のアフリカから 
    人びとと神を結ぶ 
    始源の音楽が 
    聞こえてくる
    (著者のコメント; 大いなる赤道 大地、 鼓動、 そして生命 赤道直下の町キンシャサ、 コンゴ民主共和国の首都には毎夜、 音が溢れている。人びとは歌と踊りに熱狂し、陶酔していた。私たち人間はいつから歌い、 踊ることを身につけてきたのだろうか。)
    みかさんのLatinを生で見たいと常々思っています。

  2. テアトロHibiki より:

    いのうえさま、これは宇宙の采配的なタイミングの投稿ありがとうございます。
    まさにひびきみかの世界でもあります。
    非常にインスパイアされました。
    いつかお見せいたします。お楽しみに☆

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