路地テアトロ 実験プログラムへの誘い

今年の2月に、路地テアトロ初の実験公演を行った。

たかがダンス・・・と思われがちな、「ダンス」といわれているものに、これほどまでに深くのめり込んで、誰に対しても妥協を許さず、ひたすら「表現」への追及を続けている者はいないかもしれない。けして褒められたことではないかもしれないが、唯一自分で自分を誇れる?のはこれしかないようだ。

この4月5月のゴールデンウイークのさなかに、ふたチームに分けて実験を行う。

研究生にもこの「透明」の断片を体感していただきたく実験台となってもらいました。

振付とはいいがたい単純動作の繰り返し、感情の排除、身体への地道なフォーカス・・・・この先に「透明」が待っている。

ご来場心よりお待ちしております!

『透明へのチャレンジ』パート1(4/29)・パート2(5/4)※いずれも16時スタート\500

 

15年ほど前から「透明」という言葉を頻繁につかうようになった。

きわめて主観的な競技ダンスというアスリート経験を経てたどり着いたところが「普遍」だった。やがてそれが功を奏して(果たして功なのか)、舞台芸術の道に進み始めた頃「透明になりたい」という衝動が度々わたしを襲ってきた。

内なる声に導かれるまま突き進んでみたところ、主観的に得た喜び以上の充足感を得た。

何百人の中から唯一無二の地位を獲得することだけに凌ぎを削ってきたにも関わらず頂上にたどり着いてみると「透明」という札が置かれていた。

主観的に得た喜び以上の充足とは・・・・

自分の身体との他者的な関係における時空を超えた世界。

そこには、そこはかとなくただよう懐かしい世界があった。

 

「わたしたちは、どこから来たのだろう。そしてどこへ行くのだろう。」

まるでゴーギャンの絵だ。

 

以下、ご参考までに:

路地テアトロ「ひびきみかアンコール公演」講評 神代充史(一部抜粋)
2015年1月、リアリティマイノリティパーソナリティを終えた。15時/20時の2回の公演。

10月の公演に比べるとはるかに動態が透明化されてよりわかりやすくなった。

舞踏で始まる人生観のような一面と死生観ような一面を十分に発揮した気がする。オルゴールのワルツに身体はとめどもない躍動を伝えてくれていた。オリジナリティあふれる鍵盤ハモニカとフリューゲルホーンの作品はラテン身体の様子を垣間見せつつ連帯をほのめかす。激しすぎるアルゼンチンタンゴと杖の妙味・・あたらしい。
ともあれ音の1時間と身体の1時間が見事に表現力を増幅させた路地ならではの公演であったことは間違いないと確信した。jindai

あわせて読みたい

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です