in celebration of ○○○○○

人生について、運命?についていつも考えてきた。

意外に若い時から。若いというか小さい時から。

だからといって答えが見つかるわけでもない。

だけど、流されるわけでもない。

いや、若い時、小さい時は、流されながらいつも、もう一人?二人?もっと?別の誰か・・・自分?・・・が、流されている風なわたしを褪めた目で見ているのだった。

その褪めた目線の「わたし」が記憶している映像?動画的な事物の風景の記憶も鮮明だ。

 

さて、誰もが年齢を重ねると思うことだろうけど、わたしも思う。

 

例えば、自分と同じくらいの年齢の知人があっちの世界に旅立ったとして

自分はこっちにまだいるとして

残った自分は得をしているのだろうかと。

 

もし、

得をしているのだったら、得をしているなりにちゃんと生きているだろうかと。

 

自分にとってのちゃんとっていうのは、

自分らしくってこと。言うのは簡単だけど、もうちょっと詳しく言うと、

「ほんとうはこう思っているのだけど、ここはしょうがない。」とか

「ほんとうはイヤなんだけど。」とか

「ほんとうは違うと思うのだけど、しょうがない。」

などなど、どれも同じ意味だけど

そういう風に極力しないこと。

それが、生きながらえている側の《ちゃんと生きる》だと思っている。

 

世の中には、「ほんとうは違うと思っているのだけど」が多すぎて、時にイヤになる。

ほんとうにそう思っているなら、そうすればいいのに。

そうしないなら、ほんとうにそう思っていないのだから、そういわなくていいのではとわたしは思う。

 

だって、「ほんとうはそう(ちがうと)思っているのだけど」って言う場合、

 

必ず陰口みたいのがついているじゃない。

 

わたしは、それは無駄な時間だと思う。特にいまは。

無駄な時間というのは合理的に生きるほうのことをいっている。

不満が残ったり、陰で言ったりする時間のことを言っている。

 

非合理こそ真理だわっ。

 

 

なるべくシンプルに、合理的認識を超えて生きたいと思っている。

芸術的価値と同じ生き方ということなのかな。

 

思い通りになるとかならないとかということとは少し違う。

思い通りになることが、自分の魂の願いと違う場合も多々ある。

 

 

ところで、不合理と非合理は違いますからね。くれぐれも。

 

 

 

とにかく、もっと簡単に言ってしまえば、なにかよからぬ気持ちを抱くならその時間を早々に切り上げて、

そういう場から早々に引きあげて一人で稽古していたほうが命を無駄にしていないような気がするこのごろ。

 

というわたしの生き方。

って、いつもそんなんでやって来たな。奇妙に?つらい時もあったけど、いまは快感?!

あのつらかった時期というのは、きっと合理的な概念が少し残っていたのではないかといまは思う。

 

 

 

 

今日は笑えるくらい面白いことがあった。

面白く考えるから面白いだけで、普通っていえば普通だし、普通じゃないっていえば普通じゃないし、

でも、やっぱ喜劇だと思う。

 

今日のこと話したいけど、あまりにオカシイので、

書くのはやめておく。

 

会ったときに話しますよ。

1分くらいで終わる話だけど。公演の後の雑談の時とかいいかも。

 

ところで、

すっかり秋ですね。

夏生まれなので、秋に敏感なんです。

 

今年は、自分のcelebrationが来る前に秋の光をみたので、

ちょっと動揺したけど。

 

 

それはともかく、

今日の話も創造の一環のようです。

前作品「Other Storis」があまりに上出来だったもので、あたらしい扉が開いたのですよ。

次作品は「方程式人間」

そして、最近時折つぶやいていますが、同時進行している大作も、ついにタイトルが決まりましたのよ!

次の公演時にお知らせいたします☆

 

なので、次作品「方程式人間」をお見逃しなく!

 

あれ?宣伝ブログだったのかな????

 

 

 

 

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