DEEP MOVEMENT

なんだか、なーんにも響いてなかったのだな。という衝撃と、こんなに響いた事はいままでになかったなという感激が一気にやってきた。

DEEP MOVEMENT とは、当スタジオのトップページにもあるように、ひびきメソッドの根幹です。

ボーンメソッドはいわゆるテクニックを開花させるための体操ですが、DEEP MOVEMENTは、ボーンメソッドやダンスを習得するための根源になるものです。

とはいえ、観念的なモノではなく、身体の実際に存在するある部分のことです。

肉体と言ってもいいですよ。

なぜ肉体というとふてくされず、身体というとへそを曲げるのかもわからないし、心とからだはつながっていると当たり前のように言うのに、からだ=身体はおざなりでおきざりなのか、自分と向かい合うとか自分自分というのにどうしてそこに身体が欠落しているのか、それもわからない。身体は自分ではないのか?

そして、みなさんが一番大事にしているらしい「気分」や「感情」は、一体全体、身体無くして語れるのだろうかという疑問も拭い去れない。健康志向という意味ではないです。

健全たる精神のためには、感情や気分というネガティブなものを餌にした思考が化けたものがほとんどだから、本当の感情は身体の中にしかないのですよ。

 

しかしやっと納得できたような気もします。やっと響く響かないの原因がわかったかもしれません。

次の伝達段階に入るのだろうと思う。

 

当スタジオのレッスンは、DEEP MOVEMENTが主軸になっていて、その観点でLATINや舞踏や舞台芸術に向かっていく形になっている。なにより社会で活かしてもらう方のが目的なのだけど。

子どもたちや障がい者と言われている方々はDEEPがブレないのだけどすぐにブレてしまう健常者たちを、誰もが最初は天才であることを自覚し、それを失わずに社会生活ができるようにダンスを通して、体験体感(できれば体現も)してもらうというプログラムだった。

 

いま、特に日本では、福祉も教育も芸術も何もかも、「なんのためにそれをやるのか」がブレまくっているからだ。

それを作っているのは、健常者なのだ。

狭い社会(会社)などにいたら余計に見えづらいのだろうけど、フリーでいると守られた中で胡坐をかいているのとは違う分、丸見えなのだ。

 

わたし自身は、ダンスを通して身体の重要性・・・精神は身体から成り立っているという生態的なこと、また、創造も想像も身体が根幹であることを伝える専門家なのでそれは社会活動一般に通用していく哲学になっていく。

 

小さいころから、人々の言葉が独り歩きをしていることが妙に気になっていた。

言葉を自在に操れる健常者が、言葉をウソの道具や無自覚に野放しにしていることが気になっていた。

言葉も身体なのになぜ?・・・・という疑問が拭い去れなかった。

 

物書きになるか身体表現者になるか、と思索模索したこともあるけれど、身体表現を選択して良かったと思う。いずれ書物にも手を出す所存だけれど、一般的に言葉を話せる人ほど言語が身体から離れることの理由を自分なりに理解できるまでは、書けない気がしていた。どうにも理解が出来なかったからだ。

 

言葉は身体から生まれたのだから。

言葉が身体から離れている限り、障がい者に対する差別もなくならないだろうと感じるし争いも後を絶たないだろうと感じるのだ。

 

ぽれぽれダンスとしてスタートした仲間のみんなとの交流も12年が経ち、もはや「言葉なんていらない」なんて言う言葉さえ必要ないほど、感じあえるようになった。それは、言うまでもなくダンス(身体)で、交流してきたからなんだ。

身体で交流していくことで生まれる信頼関係は、身体から離れた言葉で信頼の振りをしていた関係性よりも何百倍も確かなものだと実感した。先生と思っていないのに先生と呼ぶなんてありえないことだから。

 

 

それにしても、DEEP MOVEMENTを一度も受講したことのない方が、DEEPがなんだかわからないというなら、とっても理解できるのだけど、DEEP MOVEMENTのレッスンを自らの意志で受講したことがある方々に、いまさらDEEPがどういう意味がわからないといわれることのショックは計り知れない。

しかも、DEEP MOVEMENTから派生したDEEP UNITは、その命名時から、DEEP MOVEMENTの観点で自身の踊りや身体(ボーンメソッド)やLATINや舞台活動、社会活動をするというものだったからだ。

わたしは誰かのための社会活動をしない所存だ。なぜなら、◌◌のためというのは責任転換のなにものでもないからだ。つい先ごろもひびきのためにやったと自分のためにやったことに対する責任をわたしに押し付けようとされたことがある。無自覚かもしれないが、これは無自覚であればあるほど罪だと思う。

 

ふしぎな友達もホームレス支援も老人施設でのダンスも、きゃべつやぽれぽれの仲間やLATINソウルやラティーナスのメンバーたちとの交流や出会いも、すべてDEEP UNIT(=DEEP MOVEMENTの身体感覚で交流するUNIT)での活動であったはずだ。

個人では絶対に出会えない仲間たちと非常に近いところで感じあえる機会ができたのも、DEEP MOVEMENTの活動観点で接することができたからなのだ。個人で発掘し携わっていたのなら話は別なのだけど。ちなみに、わたしは個人で発掘して携わって来たのですが。

 

 

社会はどうして悪くなる一方なんだろう。といつも疑問に思っていた。

日本人がアイデンティティがなく、ステレオタイプであることは、もうずっと前から世界では笑いものだったけど、

わたし自身は、アイデンティティがあるから日本人っぽくないなんて言われながらも、

日本人はほんとうはこんな民族ではないはずだ、という思いだけが唯一の糧であったけど、このところの積み重なる出来事で、

はじめて、それはわたしの錯覚であり、そういう民族だったのだと納得したのだ。悲しいが致し方ない。多勢に無勢(少人数)だ。

 

他の業界でも、わたしと似た考えの方々は、どうもやはりバッシングの嵐にあい、わずかな賛同者と共に歩んでいるらしい。

でも、それを知った時、わたしもまたうれしい気持ちで、歩み続けることができるのだ。

この身体を根幹に置いた生き方のなかでは、自意識も過剰にならないし、評価主義の犠牲にもならないし、何より支離滅裂で自分を見失うことはない。心無い言葉に落ち込んだり、くやしい思いをしたりはするが、総体を見失うことはないからだ。

人々は部分だけを見て、不平不満をを言ったりするものだから、言動が支離滅裂であることが多すぎるのだ。

 

いつか気づくだろう。気づいた時には、その不平だらけの顔に笑顔が心底宿り、いらない自意識無しでも社会活動に没頭できるだろう。やってやってるなんて意識で、仲間のみんなと関わるのは失礼だということを知ってほしい。

 

これは、価値観とか好みとかそんな類のことではなく、人類のパターンなのだろうけど、そんなことをして本当にしあわせなのかと疑問は残る。

 

さてさて、ネガティブな話はこの辺にして、スピリチュアル的にも二極化が進む中、

わたしも大きな気づきを得ました。うっかり大切なことを見逃すところでした。

社会を良い方向に変えていくのは自由に動ける健常者で、障がいを持つ方々はそうしようと思っても、どうしても健常者の手を借りなくてはならないのだから、健常者よ、惑わされずにしっかりしろ!とこの活動を続けてきたけれど、

社会を良い方向に変えられるのは障がいを持っている方々のほうだ。そして、仲間のみんなが身体で発信している数々のことを、我々が見落とさなければ、それはいとも簡単に実現できるのだと実感しました。

 

たった一度、ある障がい者イベントでひびきメソッドダンスを目撃した友人に、驚くほど響いたことをきっかけに、わたしもまた開眼したのでした。相乗効果とはこういうことなのだ。ブログもご参照ください。

 

50年ほどまえに琵琶湖学園を創設した糸賀一雄氏が、「この子らを世の光に」と据えて社会福祉の父として活躍されましたが

わたしもまた、というか、わたしの場合は仲間のみんなをわたしの右腕として、この人生の使命を全うしていくのだと気づいたのでした。

 

彼たちは観念でものを言わないので、非常に行動力があります。そういう意味でわたしとの相性もピッタリです。

 

ひびきと共に活動していたことは人に伝えられなかったと恥でもあるかのように言われる一方で、自ら広報担当を申し出てくれた仲間のみんな(親御さんではありませんよ)の心の広さに頭が下がります。

まずは、ノルウェー公演応援カンパの広報をかって出てくれた、ラティーナスのメンバーとラテンソウルのメンバーと世界を駆け巡っていきます!

あわせて読みたい

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です