なぜボーンメソッドなのか・・・

人生も後半に入ると先のことをほとんど考えなくなるのでより一層《いま》に集中できる♪

そもそも、競技ダンスの下っ端だったころ、「次の準備次の準備」っていうメソッド?を教わったことがあって、それはそれでためになったのだけど、或る日「んじゃいつ《いま》をやるの?」みたいな疑問に差し掛かった。なつかし~~思い出。

 

さて、ボーンメソッド(コツコツ体操ともいうらしいが?言わないよ(*’▽’)) 、もともと自分自身のダンスの向上と身体能力の向上のためのものだった。これも不思議なことに競技ダンスの時に、いまは亡き偉大なコーチャーに師事した時に《骨》に芽生えたわけ。※くわしくは、このHPのどこかに書いてあります。

 

しかしこれ、体系化・・・・つまり公開したから少し遠回りしたのかな。って最近思ってます。

 

何かをつかむと《伝えなきゃ》って瞬時に意識が働く癖が20代からあって、ついついアレだったのだけど。

やっぱ、実演家は先生をやってはいけないのよ。ホントそう思う。技術(魂)の切り売りをお金に換えるのはあまり良くないのかも。しかも安くしちゃうワタクシ。。。

 

実演家なのだから実演で生活すればいいのですよね。

じゃないとエセ教師は増えるわ、アマチュアが教えだすわで、《伝授》という行為の価値も下がっていくような気がする。

若い時は気づかなかったけど。

 

 

で、最近よぎることは・・・・

ボーンメソッドは先ほど書いたとおり自分のためのメソッドで、しかもボーンはわたしにとっては、身体の一番表層に位置するものなんだ。

だけど、あまりに世の中が筋肉主義なので、「骨でしょ」ってのを伝える行為だけで、15年くらいかかっちゃってて、しかも、つづく人なかなかいなく、みんな筋肉に帰っていくから、なんだか無駄足してたのかもって。

あ・・無駄好きだから別に時間は惜しくはないのだけど。

うっかり体系化することで、外界のペースに合わせすぎてたのかな~と。

 

これまた皮肉なことに、

ちょうどいま路地テアトロの実験公演に向けてメンバーの稽古をしているのですが、

なかなかメンバーがLATINのDEEPのとびら(とびら好き)が開かないので、手を変え品を変え稽古していくうちに、

ついこの間、伝えたことがメンバーの身体に響いた(つまりからだでやってくれたということ。いつもはやらないから。できないんじゃなくてやらない。)のを見た時に、わたし自身も新鮮で「そうだよね!やっぱりこれなんだよな~」ってあらためて、なぜボーンメソッドなのかを思い出したとさ。

で、すっかりDEEPで踊ることが身についている自分なもんで、しかも特にLATINはボーンを一番表層にしてその内部に入りこんで音楽を聞いたり身体を動かさないと踊れないダンスだからね。

うっかりボーンが上辺だってことをたまに言うのを忘れることもあって。(っていうか覚えておいてよ)

 

 

舞踏などは、観念的になっても自己満足度は増えるし、哲学があれば時に成り立っちゃうこともあるけど、

LATINは観念で踊るわけにはいかないので、自己満足じゃ趣味の領域どまりになってしまう。親しみやすいイメージがあるわりには、高度でシビアなのよっ(*^^)v

だから、わたしにとっては、舞踏もLATINも同じで

骨は一番外側で、その内部(身体の宇宙)にひたすら入り込み、

偶然を引き寄せる身体を毎秒毎瞬繰り広げるのさね。

 

で今日(今日!?)、いまさら発見したのは、いま稽古中の作品「神話のとびら」の合間に、ちょっとLATINムーヴをやってみたわけよ。準備体操代わりに。

そうしたら!《骨》が一番表層で、中で中で八の字描いた(股関節なんかじゃ描かないのさ実は)時のそのDEEP感が半端なく、見た目もいままでとずいぶん違うし、あれれれれ~~ずいぶん奥まできたもんだと実感できたのであったのであったのであるのであった

 

これ、舞踏だけだと、量子的な現象で知覚できるのだけど、やっぱりわたしらまだ肉体人間だから、ちょっとわかりづらいのよね。でも、昨日みたいな現象とか、神話のとびらみたいな作品踊っていると(1月の路地公演でもそれは起きた)、意外に頻繁に量子現象起こるので、だんだん驚かなくなっちゃうものだからさ。

 

その分LATINは、なんかカジュアル感アリアリ、現実感アリアリ、人間感ありありのなかで、DEEPな宇宙へいくから、非常にわかりやすい実感がある。

しかし、驚いたな~。まだまだ深淵に行ける可能性があったんだな☆

余は満足じゃ(^^♪

 

 

 

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