言語と身体

身体の欠落と言語の欠落は同じなんですよね。

言語が身体から離れすぎていると、重心だって狂いますわね。

じゃあなんで、うわべの言語を話せないふしぎな友達仲間は言語が身体と離れないの?っていいたい。

言語が自由自在のはずのひとは、言語が身体から大きく離れて観念的で現実離れしていて、

最近は特にちょうど身の回りで国語レベルで狂っている言葉の使い方に翻弄されてしまった。

 

一番気になるのは・・・

「すみません」の乱用。ほとんど真意がない。

本当の意味で使っていないので、大抵は同じことを繰り返すし、そのうち逆切れする。

逆切れって何でしょね。

 

 

会話が成り立たない会話・・・

「集中力がないね。」

それに対する答え・・・「集中します。」

これは会話なの?

 

「練習してないね。」

「練習します。」

やったためしがないね。

 

よーわからん。似たような事件が多発。

勘違いなんてそうなんども起こるものじゃない。集中力の欠落・・・ならまだしも、単にプライオリティが低いだけ。ようは勘違いする案件に対して、重きを置いていないだけだと思う。

 

いまは、なんでもうわべならネットでチョチョっと調べられるし、電話や手紙よりメールでチョチョだし、触覚は鈍るばかりだ。人にも聞かず、観念肥大。思い込みで自己満足・・・身体の真逆だな~。

 

きっと尊敬するひととか師匠とか持たないことが多いのかと思う。

師匠を持つ経験がない人の特徴は結構似かよっている。

勘違いすら正当化するからね。自分に非がないという考えは戦争にいたるのと同じだよな~。

そういう心情なのに、口では「すみません」とか言ってしまうのは、言語でさえもはや意味を持たないわけだから。

 

さて、いつだったか舞台スタッフと語った時がある。師匠や尊敬する人を持った経験がないと本当の意味での精神の修行が未熟で自信だけが現実を伴わずに肥大する。と。

師匠ってのは、理不尽で不条理なんだぞ。だけど、尊敬に値してて、嫉妬心なんて微塵も沸いてこないんだぞ。

かわいがってほしいけど、自分だけのものじゃなくて、慕う人はたくさんいるから、独り占めできないんだぞ。

絶大な存在で、イジワルで、愛情にあふれているのだぞ。

師匠に恵まれていたわたし。おかげで学ぶ力を身につけた。驕らない気質を身につけた。

 

おかげで、いまは道端の石ころからも学び取れる。

 

うわべ社会はその反動がコワいな。

 

わたしの棲む場所じゃないからいいか。巻き込まれるのは、まだ修行が足りないのかな~。

同じような事件が多発するのは、波動が下がっているということか?

 

 

しかし、パラレルワールドでは、すばらしいことばかりが起こってしあわせいっぱいなんだけど。

 

 

 

 

 

 

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2件のフィードバック

  1. いのうえただし より:

    最近の私の気持、周りの世間に対して感じていることを、そのまま代弁してくれているかのお話、特に「尊敬する人をもたない、師匠を待たない・・・」くだりは同感です。教育の本筋の所の、言ってみれば当然読んでおくべき書物を読んでいないといった教師が実に多いことか・・・素直にへりくだってどんな人からも、場合によっては教えている児童。生徒からも教えを得る態度を持たないといけないと声を大にして言いたい。『言語と身体』を読み、本当に両の手を挙げて叫びたい心境「その通りだ!」っと。

  2. hibikimika より:

    大先輩大ベテランの井上様に共鳴いただき、わたくしも光栄&力を得ました!
    ありがとうございます。
    何ぶんこのところの周囲、世間、何かがおかしい気がして。似たようなことが頻発しておこりすぎ。
    しかし、今に始まったことでもないような。でも圧倒的に多いこういった方々がいまの日本を潜在的につくっていると思うと・・・多勢に無勢。。大きな壁を感じずにはいられません。
    なので、このエールは本当に嬉しい限りです。心より感謝いたします!

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